七回表:沢村栄治のライバルたち‐剛打列伝戦前編‐

2008.9.7更新

「眼が縦についている」景浦将

 沢村のライバルとして第一に名前が挙がるのが景浦将(松山商-立教大-タイガース-戦死)である。中学-大学-プロを通じて投打に活躍、昭和11年には防御率1位のタイトルも取っているが、やはり打撃の人。フライを打ち上げると煙草が一服できるくらいに上がり、それから「ドスーン」と落ちてくるから怖かったという。痛烈な打球にショートが近寄ると、走りながら「危ないっ!捕るな!」と叫んだという。もちろん冗談のつもりだったのだろうが、当時のグラブのチャチさを考えると実際に危険はあったろう。職業野球初代王者決定戦で沢村のドロップを洲崎球場場外に叩き込んだ「太平洋ホームラン(洲崎球場場外は東京湾だった)」はあまりにも有名。なぜ沢村のドロップを打てるか人に聞かれて、「俺の眼は縦についている」と答えたそうだ。フィリピン・カラングラン島で分隊の食糧を調達に出かけて還らなかったという。松木謙二郎は二リーグ分裂で弱体化したタイガースの監督を引き受けて苦闘していたとき、景浦が生きて還って自分を助けてくれる夢を何度も見た。ちなみに、対沢村の打撃成績は43打数8安打3打点、四球3、三振6。通算打率.186(宇佐美徹也氏調べ。公式戦のみ。)。ただし、優勝決定戦も含めると66打数15安打1本塁打、打率.227となる。画像は景浦の打撃フォーム。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

 

「沢村にリベンジしたい一心でプロになった」松木謙二郎

 沢村に受けた屈辱を晴らしたいというだけでプロ入りしたのが松木謙二郎(敦賀商-明治大-大連実業団-タイガース)だ。当時社会人1の大連実業の主力として創立直後のジャイアンツと対戦し、沢村にキリキリ舞いさせられた。タイガースに誘われたとき、「沢村を打てるのなら」と当時まだ山のものとも海のものとも分からない職業野球の世界に飛び込んだ。それでもなお松木の屈辱は続く。史上初のノーヒットノーラン。王座決定戦での敗北。伊達正男(早稲田大)の速球を打つための特訓を沢村にも応用し、投手板の1歩手前から投げさせた打撃練習は松木の発案。それでも昭和12年春には2度目のノーヒットノーラン。だが、12年秋、ついに沢村打倒の宿願を果たす。優勝決定戦で沢村を打ちこんで優勝。晩年の松木はこう言っていた。「沢村がいなかったらプロ野球はできていなかったのではないか…。」画像は松木謙二郎。

「大根切りの沢村キラー」小川年安

 初代沢村キラーが小川年安(慶応大-タイガース-戦死)である。慶応の大スターだったのがプロ入り。大根切り打法で昭和11年度チームの首位打者(.342)。ホップしてくる沢村の速球に大根切りがマッチしたのか、初代沢村キラーとなった。戦地で偶然沢村と一緒になり、写った写真が残っている(左が沢村、右が小川)。二人とも戦争の犠牲となったのが悲しい。

「中学時代からの宿敵」藤井勇

 京都商業が沢村を擁して優勝候補として乗り込んだ昭和9年夏の甲子園。京商の野望を打ち砕いたのが藤井勇(タイガース-パシフィック-ロビンス・ホエールズ)の鳥取一中。鳥取一中の安打はわずか4。藤井は二塁打を放っている。藤井は昭和11年にタイガース入団。プロ野球第1号ホームランを放った打者として球史に永久に残る。11年はチームで第2位の打率。沢村からたびたび痛打を放った。画像は藤井勇。

「阿修羅の男」藤村富美男

 実は沢村の京商がイチコロ負けした甲子園の優勝投手が藤村富美男(呉港中-タイガース)。堀内恒夫(甲府商高-ジャイアンツ)に似たフォームから剛球を投げ込み、打率4割と投打に活躍の藤村はその全力プレーから「阿修羅の男」 と呼ばれた。沢村全盛期にはまだ投手中心のプレーで打撃は今ひとつ。戦後37インチのバットを振り回し、「物干し竿」とあだ名されたが、沢村が健在だったら彼は物干し竿を振り回せただろうか。画像は戦後ダイナマイト打線時代の藤村の打撃フォーム。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

タイガース主要打者の対沢村打撃成績(11-18年、宇佐美徹也氏調べ)

打者

打数

安打

本塁打

打率

(一)松木謙次郎

71

10

1

.141

(二)藤村富美男

47

10

 

.213

(中)山口政信

69

14

 

.203

(右)景浦将

66

15

1

.227

(左)藤井勇

66

13

1

.197

(三)伊賀上良平

63

9

 

.143

(捕)田中義雄

30

14

1

.467

(捕)門前真佐人

17

2

 

.118

(遊)岡田正芳

52

10

 

.192

「パーフェクトバッティング.467」田中義雄

 戦後タイガースの監督に就任し天覧試合を戦ったのが田中義雄(ハワイ大‐タイガース‐オリオンズ‐タイガース監督)。その容貌・言動から「カイザー(皇帝)」とあだ名されていた日系二世。沢村キラーであったことは意外に知られていない。しかし、宇佐美徹也氏の調査ではタイガースの誰よりも沢村を打ち込んでいる。本人は次のように証言している。「いいピッチャーだった。球は速かった。ドロップはびっくりするくらい落ちた。すごいピッチャーだとみんながいっていましたね。でも、抑えられるばかりじゃなかったんですよ。打てた。ぼくは太いバットを使っていましたね。それでポイントを前にしぼってバットを振り切った。低目の球には手を出さずに、ホップしてくる球をレベルスイングで打った。ぼくは自分の力を知っていた。その力で相手に勝つ方法を知っていた。昭和13年かな(筆者注:沢村は出征中で登板せず)、ぼくは沢村をパーフェクトに打ちこんでいるんですよ。」画像はカイザー田中。

 

「沢村を野郎扱い」苅田久徳

 苅田久徳(本牧中-法政大-ジャイアンツ-セネタース-翼・大洋-大和-フライヤーズ-オリオンズ-パールス)といえば守備の名人として有名だが、実は沢村に強い打者としても知る人ぞ知る存在。「沢村の野郎の球は軽いから当たるとギューンて飛んでくんだ。」とは晩年の証言。通算打率は.218だから決して強打者とはいえない。沢村は短く持ってカチーンと当ててくる打者には弱かったようだ。画像は苅田のセカンド守備(『野球の妙技』)。見えにくくてスミマセン。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

 

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